著書紹介 謎の皇妃エリーザベト 混沌と強烈な情念 上・中・下 高月楓

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https://play.google.com/store/books/details/%E9%AB%98%E6%9C%88%E6%A5%93_%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%9A%87%E5%A6%83%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%88_%E4%B8%AD?id=YsbYBwAAQBAJ
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「謎の皇妃エリーザベト 混沌と強烈な情念 高月楓」 上巻 279円 131ページ。

 

中巻 279円 251ページ。

 

下巻 279円 195ページ

  

 

 

 私は半年くらい前から、高月楓というペンネームで「GooglePlaybooks」から、こんな電子書籍を出版していました。

(何か同名でのTwitterがありましたが、私とは別人です。私はTwitterは、やっていませんので。)

それから、すみません、現在ここで出版中の私の電子書籍のリンクが有効になるはずの、Jimdoの箇所に貼り付けたはずなのですが、なぜか有効になりません。

お手数ですが、もしこの電子書籍に関心があったら、このアドレスで検索してみてください。出版自体はまちがいなくされており、閲覧も購入も、可能になっていますので。

このサイトの本来のベルギー関連の記事の内の、あくまでも付随的な記事から派生したものに過ぎなかったものの、この皇妃エリーザベトも、一度自分なりに、書いてみたい人物ではあったもので。

 

 

私も、本当なら、このサイト名にもなっている、ベルギー王妃ルイーズ・マリー・ドルレアンの伝記の方を、出版したかったのですが。しかし、このサイトの参考文献のページの中でも紹介している通り、ようやく、最近日本でも、新書による簡易版ながらも、ベルギー王国の通史が出版されるようになったくらいの段階ですので。

ベルギー王妃の伝記なんて、あまりにも日本ではマイナー過ぎて、このサイトと同じく、検索エンジンにもなかなか引っかかりずらいだろうし、また関心自体も、持ってもらいずらいだろうと思い。

そもそも、いまだにベルギー王国初代国王夫妻が、現在のイギリス王家にも連なる、ドイツのザクセン=コーブルク家公爵とフランス王女であるということ自体も、日本では、まだまだ、あまり認識が広まっていないのではないか?と思いますし。

それにおそらく、ルイーズ・マリー・ドルレアンの父である、フランス国王ルイ・フィリップの存在自体が、日本ではほとんど注目されておらず、すっかりナポレオン三世の陰に、隠れてしまっている感じですからね。

 だから、こんなマイナー歴史サイトで、こうして私のこの電子書籍を紹介しても、どう考えても、そうそう興味を持ってくれたり、購入までしてくれる人が、そう簡単に現われるとも思えない、という気持ちも強くて。

 

 

 

 

しかし、一方、私の皇妃エリーザベトについての興味の方についてですが、一般的にはこちらの方が圧倒的に多いとは思う、彼女に対する憧れや共感や尊敬などの、プラスな意味での興味とは、また違うのですが。

しかし、何でこういう人物が、ここまで好意的に捉えられたり、高く評価されてしまうんだろう?という、強い疑問に基づく、逆の意味でではありますが。

私はそういう意味では、以前から大変に、彼女という存在に対しては、関心がありました。現在皇妃エリーザベトというと、すっかり一般的になってしまっている、彼女について、コルティやハーマンの示している見解への、アンチテーゼとでも言うべき内容です。もし、もっと私の語学力や電子書籍作製技術が上だったのなら、本当なら「Amazon Kindleダイレクト・パブリッシング」の各国版などでも出版して、国際的にも問いたいくらいの内容ですね。

 

 

 

この私の本の内容を一言で言ってしまうと、エリーザベトのオーストリアとハンガリーのアウグスライヒに向けての奔走など、彼女の一連の行動は、理想でも信念でも思想でもなく、やはり、結局はあくまでエリーザべト個人の、自己主張のための自己主張でしか、なかったということです。

これらの彼女の行動全ては、ただただ、全てはエリーザベトという、極めて強烈で特異な個性を持った女性個人の自己顕示欲・自己主張を主な動機としたものに、集約されると考えられます。ハーマンなどは、こうしたエリーザベトの各行動を、エリーザベトの自己実現としていますが。

しかし、私はそれよりも、このように見た方が、妥当ではないかと思います。

そしてエリーザベトのそういった欲求を部分的にでも満足させられたのが、アウグスライヒで愛するハンガリーに特権的な地位を与えられることになったことであり、また桁外れの多大な時間と金銭を費やしたり、更に、もはや苦行の域にまで達している、その過激で常軌を逸したダイエットにより、無理やり維持し続けた、その容姿への称讃。

そしてこれも金に糸目は付けない、これも常軌を逸したその乗馬への耽溺振りで、初めて可能になった、彼女の高度な馬術技術への、同様の称讃だったのでしょう。

 

 

一見、エリーザベトは、しばしば彼女言う所の、浅薄な世間とは距離を置く、まるで孤高の隠者・哲学者のような存在を気取ってはいますが。しかし、実際には、自分のいろんな意味での素晴らしさを、ぜひ大勢に向かってアピールし、更にそれを十分に認めさせたい、とでもいうような気持ちが、彼女の意識の中に、一貫して強くあったのだと思われます。

(また、おそらく、その己の美貌への、世の称讃の声が高まるにつれて、実力と妥当な自己評価に裏打ちされた、適切な自信というよりも、変な自信も、ますます強めていったんだろうし。)

 しかし、現実にはなかなかそれが叶わないがゆえの、上記のような日頃のエリーザベトのポーズ・行動になりやすかったのではないのかな?というように、私には思えます。

 そして私は以前から、このエリーザベトに対して、漠然とそういう印象は、ずっと抱いてはいたものの、今回本書の執筆に当たり、本格的に彼女についていろいろと考察してみた結果、改めてこういう結論に、到達しました。

 

 

 

そしてしばしば、エリーザベトの性格の最大の長所及び魅力であるかのように言われている、彼女のこよなく自由を愛する性格という見方についても、私は異論があります。

私はむしろ、彼女のその、ハプスブルク家、教皇権などの、既成の権威という権威には、ことごとく盾つきたくなるという性格は、その自由を愛する人柄によるものというよりは、むしろ、生来の強い反逆者的性向からだったのでは、ないでしょうか?

やはり、これもこれまでエリーザベトの個性の捉え方を、誤っていたのではないのか?という気がするのですが。

またこのエリーザベトの自由主義的性格についても、半ばは彼女本来の性格から来るものであると共に、あくまで彼女のそれは、彼女自身のきちんとした思想に基づいたものである、という理由付けをしたい向きも、強い感じですが。しかし、これも私から見ると、エリーザベトの場合、まずあくまでも彼女自身の感情や強い衝動が先にあって、そして理屈や理論は、後から付いてくるというような感じだったのではないのかな?というように思えます。

 

 

また結局は、さもエリーザベトの深い思想が基になっているかのような、帝国やハプスブルク家やウィーン宮廷についての、彼女の批判の数々も、私はその実態はこういったものに対する、批判のための批判に過ぎなかったのではないのか?という気がして、ならないのですが。

どちらかというと彼女のそれは、思想に基づいた、知的な批判精神によるものというより、自分という素晴らしい存在を、一向に正当に評価しようとしないと見なした、ゾフィー大公妃や宮廷全体などへの強い反感や恨みなどの、彼女個人の私怨が、大きな土台になっているのではないのか?と思えるのですが。そしてエリーザベトにとっては、自由主義や共和制などの政治思想でさえも、そうした自分の気持ちに、論理的正当性を与えるための、便宜的な道具でしかなかったのではないのか?というように、見えるのですが。いわば、一見公憤の外観を装った、実際は私憤という感じというか。

また彼女の性格で大変特徴的なのは、その特異かつ強烈な自我と個性及び非常に高い自尊心と自己評価。

そしてこれもそれらに負けず劣らず強い、そのナルシシズム、そして自分は選ばれた人間なのだという、強烈な特別意識です。

 

 

 

 

おそらく、エリーザベトの中には、こういったことに由来する、失望感と激しい怒りと欲求不満が、常に渦巻いていたのではないかと思われます。こういうエリーザベトが、基本的にオーストリアでは不機嫌なのも、当然でしょう。そして更に、長年のその過激なダイエットによる、数々の身体の不調も、より一層、こういった彼女の不快な精神状態に、拍車をかけたことだと思いますし。

現在正当なものとされている、エリーザベトのその思想が周囲に聞き入れられなかったからというより、彼女のその自己顕示欲とナルシシズムが存分に満たされないがゆえの、数々の彼女のその鬱憤だったのでは?

 私はこれらの彼女の性格的特徴及び、自分なりの長年の考察を経た結果、彼女の一連の帝国の体制・政治批判について、こういう結論に達しました。

 

 

 

また更に、今度は実際のエリーザベトの帝国の政治に対する貢献度についての、疑問ですが。

エリーザベトのアウグスライヒ推進にも顕著に見られる、彼女がハンガリーに対して終始示し続けた、その過度の好意により、間接的に、ハンガリーの過激なナショナリズムを煽り、そして逆に、実際にはこちらの方が帝国の多数を占めていた、ボヘミアを中心とする、スラヴ人達への嫌悪は隠そうとしなかったことにより、彼らの気持ちをハプスブルク帝国から、徐々に離れさせていったことに、これも間接的とはいえ、加担していた可能性です。

 エリーザベトは、政治には関心がない訳でもなく、むしろ積極的に自分の主張を認めさせ、帝国の政治に影響を及ぼしたいようである割には、自分と主張を同じくしているはずの、オーストリアのドイツ人自由派政治家達とは、たぶんオーストリアにまつわるものは、その気候さえも含めて、何もかも毛嫌いするあまりに、とうとう交流を持とうとはせず。しかし、これで果たして、帝国の政治について、有益な提案など、できるものなのでしょうか?

 

 

そして専らハンガリーの自由主義政治家達とばかり、親しく付き合い、更に、これもアンドラーシと並んで、オーストリアとハンガリーのアウグスライヒの推進者の一人であった政治家の、フェレンツェ・デアークの臨終の枕元では、人目も憚らずに泣き崩れてみせる。そしてオーストリア・ハンガリー二重帝国皇妃である自分のこういった行動が、ハンガリー人達に、一体どのような影響を与えるか、一切考慮しようとしない。

このように、甚だしくバランスを欠いた彼女の性格やその言動により、エリーザベトが引き起こした数々の問題は、ウィーンの家族や宮廷人達など、彼女を取り巻く周囲の人々達の間の範囲だけには留まらなかった、と考えざるを得ませんでした。

 彼女が帝国の政治に、肯定的な役割を果たした所か、むしろ逆だったのでは?という強い疑問が、改めて浮上してきました。

 

 

 

しかし、このように、これまでとは違う、私独自のエリーザベトの伝記の執筆に取り掛かってみると、私の当初の予想以上に、大変なものでした。まず、複雑怪奇な当時のハプスブルク帝国・諸外国の政治情勢が、なかなか理解できなくて。

私は、事前にこういうものをきちんと理解してこそ、その中で皇妃エリーザベトという人物の存在を、ハプスブルク帝国の歴史の中で、正確にはどう位置付けるべきか?ということも、自ずと判断できると思ったもので。

 

 

また本の内容構成についても、一体どのようにするか結構悩み、これらの問題から、合計半年間くらいを要して、かなり苦労して、執筆することになりました。

結局、構成については、エリーザベトの生涯なんて、みんな大体知っているだろうし、などと思い、彼女について、通常の伝記形式にはせず、私が考えた、個別のテーマごとに、章立てをすることにしました。

しかし、およそ日本では、ハプスブルク帝国というと、軽めの人物中心の読み物系、それもほぼエリーザベト中心の内容ばかりの、書籍は氾濫していても、なかなかハプスブルク帝国全体の通史というものは、出版されていないようだったので。

実際に、本書の執筆に当たり、私が参考にすることになったのも、こういった本格的なハプスブルク帝国通史というと、翻訳物ばかりということになりましたし。

 

 

 

また「エリーザベト」の作者のハーマン自身も、日本人には、単にこの本の内容を翻訳した物よりも、日本語で日本人向きに書いた内容のエリーザベトの伝記の方が、いいのでは?と言っていますが、これには同感です。私も、ただこの本の内容を、そのまま翻訳しただけでは、不十分だと思います。

やはり、いまだにエリーザベトについての決定版とされている、同書の翻訳版をぜひ日本でも出版したかったというのなら、せめて、日本の読者が本書の内容を正確に理解できるように、膨大な注釈が必要だった内容だと思います。

やはり、全体的に、専らエリーザべトの個人生活についての言及に、そのページの大部分が割かれ、帝国内外の政治・軍事については、記述が最小限に留められているこの本では「ドイツ人民族主義」など、日本人が簡単に、なかなか理解しずらい部分も、多いと思いますし。

それに、あくまでこのハーマンの「エリーザベト」は、専らルドルフやエリーザベトの視点からでばかり、書かれているという点でも、問題ありかなとも思いましたし。

またこのハーマンの伝記などもそうですが、エリーザベトに対して、本当の意味での批判的・客観的視点というものを、本質的に欠いている、関連本ばかりが、国内外共に溢れていることも、改めて実感させられました。そのため、この電子書籍執筆の過程で、肯定的に評価されている、一つ一つの彼女に関する事柄についても、改めて私自身による検証の必要性も、感じさせられることになりましたし。

 

 

 

しかし、今回の私の本ですが、おそらく、いまだに管理人の私しか、恒常的訪問者がいないんじゃないのか?と思われる、こんな超マイナー歴史サイトで、こうやって紹介してみても、関心を持って試し読みとか、ひいては購入までしてくれるような人などは、おそらく、ほとんどいないと思うので。

だから、今回主に、既にこの私の電子書籍を最後まで読んでくれて、検索でこのサイトまで来てくれる人向きに、こうして書きました。果たしてそんな人が、いるのかどうかは、わかりませんが。この本について、一応面白いと思って最後まで読んでくれて、偶然ここのサイトに辿りついた人は、ぜひ何か、感想を書いていただけると、嬉しいです。Google Playbooksでのレビューとか、ご自分のサイトかブログででも、いいので。

 

 

 

 

それから、まずいないとは思いますが、既に「Google Playbooks」の、この私の一連の電子書籍の出版ページの紹介文でも、その旨は説明はしてありますが。

もし、このサイトで今回この本の存在を新たに知った人、そして更にあなたが皇妃エリーザベトが本当に、現在の高い評価に値するような人物だと信じ、かつエリーザベト好きで彼女に関する一切の批判は、絶対に許せないという人なら、読まない方がいいことを、こうして事前に、注意しておきます。

もし読んで不快な気持ちになったとしても、私は責任が持てないので。

むしろ、現在の皇妃エリーザベトについての、一般的な評価について、大きな疑問や違和感を、常々感じているような人にこそ、ぜひ一読をお勧めします。