ルイーズは、これまでとうとうレオポルドの中から、前妻シャーロット・オーガスタの記憶を消し去る事ができなかった。

しかしそれでも彼女は、依然として夫の中で強い存在感を保ち続ける、シャーロットの幽霊の存在の重さに苦悩しながらも、それに耐え続けていた。

そして現在ここに実在している若い娘、 メイヤー夫人はルイーズを侮辱したのだった。 しかし、この二人の女性達の中で、ルイーズがより強い嫉妬を感じ、また彼女を苦しめていたのは、レオポルドにとって気晴らしの存在である愛人に留まっている、メイヤー夫人アルカディアよりも、やはり前妻のシャーロットだったのかもしれない。

 

 

この頃、クレアモントに いる母マリア・アメリは、ルイーズの病気に気付くようになっていた。 今回のフランスの大統領選挙の結果、ルイ・ナポレオンがフランス大統領に選ばれた事は、オルレアン一族にとって、最悪の結果だった。 ルイーズは、この結果について、まるで羊の群の中に、性悪な狼を入れたに等しいと明言した。

ルイーズ達は、ルイ・ナポレオンの事を、油断ならない野心家だと見ていたのである。

しかも、今回の候補者の一人だったティエールは、フランス国王ルイ・フィリップの「七月王政」下で、そして1832年の十二月から1834年の四月までは、交通大臣、そして1834年の四月から1836年の二月までは、内務大臣、1836年の二月から九月、1840年の一月から十月までは外務大臣、1836年の二月から九月、そして1848年の二月まで、閣僚評議会議長(「七月王政」下での首相)と閣僚として、要職を歴任していた。

 

 

このように、かつて彼はれっきとしたオルレアン派の一人だった。 しかも、更にこの後彼は、ルイ・ナポレオンの支持者になったばかりか、彼が没落して皇帝を退位した後、その後のフランス大統領にまで納まっている。 このティエールの変節にも、ルイーズ達オルレアン一族は、憤慨した。

一方、今回のフランスでの、決定的な君主制の崩壊を国王レオポルドは残念には思ったものの、現実的な政治的判断から、今回のルイ・ナポレオンの大統領就任を、承認した。 とはいえ、今後ルイ・ナポレオンが叔父と同じ領土拡大主義者として、ベルギーに侵攻してくる危険性については、警戒をしていた。 レオポルドはかつてナポレオン戦争で名前を馳せた英雄でもあり、そのためよけいにボナパルト一族が、かつての領土拡大主義方針をとる事への警戒感が、強かったのだと思われる。

 

 

この頃ルイーズは、再びブリュッセルで、相反する思いの日々の中に戻っていた。 オルレアン一家の没落により、年老いた両親達が衰弱していくのを見るのは悲しく、また子供達の存在は、喜びを与えてくれた。

1849年の7月に、ベルギー国王一家は、ガンで催されたレセプションに出席した。

この行政区への国王一家の訪問は、一種の凱旋旅行のようなものだった。

このガンでの祝典行事は、変化に富んでいた。産業博覧会への訪問、晩餐会、舞踏会。 「多くの産業、特に織物、これらはこの場所で開発された物です 。」

またこれらの他にも、歴史的な二輪戦車による行列、晩餐会、ワロン語とフラマン語の二種類の言語で上演された舞台など、その他諸々の催しがあった。

ルイーズの、ガンでのレセプションの内容についての 報告の中には、次のような観衆達の叫びもあったと 書かれている。

「フランス国王一家万歳」 10月1日にナミュールで催された同様の祝典は、「可愛らしい舞踏会でした。」とルイーズは書いている。この時には、二人の王子達も、燕尾服を着用した。 1849年の終わりに、ルイーズを悲しませる出来事が、相次いで起きた。

 

 

最初の出来事は、かつて彼女がフランスの家族と住んでいたヌイイ城が売却された上に、取り壊されてしまった事である。家族達と過ごした、無邪気な子供時代の思い出がたくさん詰まった場所を、突如このような形で奪われてしまった事に、ルイーズは、哀惜の念と怒りを感じた。

そして次の出来事は、この年の11月14日に、アルカディアがレオポルドの息子のジョルジュを出産し、彼の子供達の母親であるという、 王妃ルイーズの特権 まで、アルカディアがルイーズから奪った事である。

これまで彼女は、特に夫レオポルドの関心と、彼と過ごす時間の多くを、ルイーズから奪っていた。 しかし、王妃ルイーズはこの衝撃的な出来事に対し、 公的な場では、自制心を保ち、穏やかな微笑を浮かべながら振る舞っていた。

そしてこの父親が、他の女性から母親の違う子供を産ませたという事実に、ルイーズの子供達も不安を抱いた。

特に、長男のレオポルドはとても神経質になり、 また大変に皮肉屋になり、行動に予測がつかなくなった。そして、いつ暴力を振るうかもわからないような状態にまでなってしまった。

 

 

ルイーズは、このアルカディアが レオポルドの庶子を出産した事に、屈辱と悲しみと怒りを感じていた。その内ルイーズは、鉱泉地に保養に出かけた。

また、リッケン医師に治療してもらう事になった。 ルイーズは、母親のマリア・アメリには、自分が受けた屈辱と、身体の不調の事は知られないようにし、手紙のやり取りの中でも、あえて他愛のない、 1850年の1月10日に宮廷で催された舞踏会の時の、子供達のダンスの様子を話題にした。

「私達の舞踏会はとても華やかでした、とても素晴らしかったです、一時間半のプロローグがありました。それから、子供達のダンスが始まりました、彼らは観客に大きな楽しみを与えていました、レオはあまり上手くありませんでした、シャルロットはあまり関心がなさそうに踊っていました、 フィリップは、驚く程上手に踊っていました、そして彼のダンスが、一番の支持を集めていました。

その後、彼とシャルロットが一緒にダンスをしました。シャルロットのダンス、それはとても自然な感じでした。その内に、男女6人で踊る、コントルダンスが始まりました。」

 

 

1849年の12月13日、そして15日と22日に、 ルイーズは「ヨーロッパの君主制」という、 ナルシサシーユ・ド・サルヴァンディーが出版した 本を読んでいた。

そして、サルヴァンディーがこの中で主張している、フランスの王政復活のためには 、現在対立している正統派とオルレアン派の同盟が 必要だという主張に、父の前国王ルイ・フィリップが賛成し、正統派との同盟に傾いてきている事も、聞いていた。

ルイーズも、この本を読み、両派の同盟の利点は認めたものの、やはり、完全には正統派の事を信用する事ができないでいた。 彼女は、こう書いている。

「彼らは、フランスの王政復活が実現した暁には、その手柄は全て自分達のものにするつもりです。私達との協調の姿勢など、見せないに違いありません。彼らは、私達の復活を阻止したいのです。」

当時正統派は、自分達の王位継承権の優位性の方を主張し、まずは自分達の擁立している、ボルドー公爵アンリを、「アンリ5世」として認めるように主張していた。

しかし、翌年の1850年の8月にルイ・フィリップが亡くなった後、両派の同盟を結ぶための、演出的意味いが大きいといえ、マリア・アメリが主催した、夫で前フランス国王ルイ・フィリップを弔うためのミサには、正統派とオルレアン派の両派が集まった。

 

 

そして、これから23年後の1873年に、ようやく両派の同盟が実現し、正統派側の「自分達が擁立しているアンリ・ダルトワの王位継承権の優位性を認め、彼が「アンリ5世」として即位する事を認め、もし彼自身が王位継承権を手放すか、もしくは彼に子が生まれなかった場合には、その時にはオルレアン派の擁立しているフィリップ・ドルレアンのフランス王位継承権を認める」 という条件をオルレアン派が受け入れ、 同盟が実現している。そして、1883年にオーストリアで、シャンドール伯アンリ・ダルトワが本人自身の数年前からの、現在共和国となっているフランスでの、自分のフランス王位主張の意欲の減退や、ついに彼の子供に恵まれないままの死により、フィリップ・ドルレアンの、フランス王位継承が正統派にも認められる事になった。

この頃、レオポルドは王妃ルイーズの体調が思わしくないようであるため、第四回目の大舞踏会の取り止めを決めた。1850年の、ルイーズの38歳の誕生日が近づいていた4月初旬になってから、母マリア・アメリは、 彼女の文字の乱れや、その調子から 心配し、できるだけ気晴らしをするようにと注意し、また太陽の日差しは、気管支の病気に効果的だからと、イタリアに療養に行く事を勧めた。1850年の春、ルイーズはリッケン医師に会いに旅に出かけ、正式にリッケン医師からクラーク医師に主治医を交代してもらう事にした。

彼は、彼女の弟のヌムール公ルイ・シャルルと結婚している、ヌムール公妃ヴィクトリア・アウグステ・フォン・ザクセン=コーブルク=コアリーから紹介してもらった医師だった。 また、母のマリア・アメリからも、ミュシー医師を紹介された。

 

 

こうして、ルイーズの本格的な治療計画が立てられる事になった。この時のルイーズの様子を見たマリア・アメリは、 明らかに病気でやつれた様子の娘を見て、 衝撃を受けた。 ルイーズの治療の一環として、 しばらく海岸のある保養地で療養する事になった。 そしてクラークの治療方針の決定により、ルイーズはクレアモントとロンドンで、治療を受ける事になった。ルイーズは、セント・レオナルドに、母親と共に療養に向かった。

彼女は、馬車に乗って散歩に出かけた。

その後療養先からルイーズはベルギーに戻ったものの、病気は回復しなかった。

ついにヴァン・プラート子爵が、王妃ルイーズの病気について、正式に発表する事になった。ルイーズの健康状態は、7月になっても、また8月になっても良くならなかった。

8月半ばに、ヴィクトリア女王とアルバートが、避暑地のワイト島のオズボーン・ハウスから、オステンドヘルイーズの見舞いにやって来た。しかし、ルイーズはすでに彼らと 会える状態ではなくなっていたため、国王レオポルド一人だけで息子の王子達と共に、女王夫妻と会った。すでにレオポルド自身も、妻の健康状態が、悪化してきているのを認めざるを得なかった。 この頃のルイーズは病気の進行により、 内臓に炎症を起こし、また嘔吐と発汗を繰り返していた。

 

 

8月20日、ルイーズは友人のドゥニーズに宛てて 、夫レオポルドへの不満を訴えた。夜、自分のいるオステンドからレオポルドがメイヤー夫人アルカディアに会いに行ってしまったのである。そんな頃、8月28日の早朝に、ルイーズの許に悲報が届いた。

父のルイ・フィリップが死去したのである。 ルイーズは、愛する父の死を深く悲しんだ。 ルイ・フィリップの葬儀は、9月2日にブリュッセルで行なわれる事になった。

この葬儀の日、ルイーズは「すばらしいお父様」と、いつもの父の愛称で、亡き父ルイ・フィリップの事を呼んだ。

しかし、彼女はこの葬儀の間に、途中で失神してしまった。 ルイーズは直ちに、オステンドに運ばれ、そこで休ませる事になった。そしてそこで、できる限りの処置が取られた。湿布・シロップなど。

しかし、どれも効果がなかった。

レオポルドは、しばらくオステンドの海辺でルイーズが子供達と過ごせるようにしてやった。そのために、彼女が住むための家も、提供した。 ランゲ通り69番地にある、赤茶色の八角屋根に、白い壁のある家だった。 これは、ルイーズにとって、うれしい思い出となった。 しかし、この家は階段が傷んでいる所があり、 また階段の幅が狭く、不便な所もあった。 ルイーズは、この家から散歩で堤防の上を上がり、大きな雲に向かってカモメが舞い上がるのを見るのが好きだった。また、家の中で長椅子に腰掛け、外の風景を眺めたりした。 このように、しばらくレオポルドの提供してくれたオステンドの家で、ゆったりと心地良い療養生活を送っていたルイーズだが、ある事に気付き、また憂鬱に陥ってしまった。

 

 

今回、オステンドでの自分の療養のために、夫がこの家を提供してくれたのは、自分への優しさというよりも、これまでの事に対する、彼の良心の呵責から来る事だという事に、ぼんやりと気が付いてしまったからで ある。 病気の苦痛、父親の死、これらの苦悩と悲しみが、ルイーズを圧倒していた。 そして更に、愚弄とほったらかし。

これら数々の苦しみが、彼女の健康状態を悪化させていた。 また、ルイーズを悩ませ苛立たせたのは、レオポルドの寵姫のアルカディアの存在だった。

彼女は王妃を嘲笑し、悪口を言った。

また、各都市の大通りでも、 いつも馬車で我が物顔で通っていた。国王の寵愛をかさに着て数々の傲慢な振る舞いをするアルカディアの存在に腹に据えかねた者により、王宮近くのロワイヤル通りの彼女の邸の窓が、割られた事もあった。

またこの事件に関しては、いくぶんの悪意を込めて、新聞が取り上げた。

この傲慢な寵姫アルカディアに関しては、国王自身も、非難される事になった。 国王とこのような愛人との関係が、王妃を侮辱し、不幸にしていたからである。

そしてこの問題は、政治的な規模にまで発展していった。このアルカディアの存在が、国王レオポルドの不評に繋がり、王政の危機にまでなっていった。

やがて、このままでは危険な寵姫ローラ・モンテスのせいで退位する事になったルートヴィヒ一世と同じように、ベルギー国王にも退位してもらうしかないという雰囲気にさえ、なっていた。結局、議会の勧めもあり、国王レオポルドはしばらくの間、アルカディアには生まれた子供と一緒にドイツに行ってもらう事になった。 初めはこれを渋っていたアルカディアだが、民衆の怒りが恐ろしく、結果的にはこれを承知した。

このアルカディアの追放のせいで、やっと事態は沈静化していった。

 

 

しかし、レオポルドのアルカディアへの寵愛は相変わらず衰えず、1862年には 、1849年と1852年に彼女との間に生まれた息子達の、ジョルジュとアーサーに、それぞれ、「ジョルジュ・フォン・エピングホーベン男爵」・「アーサー・フォン・エピングホーベン男爵」の称号を与えている。

だが、国王がこの要望を議会に伝えた時、議会からは強い反対にあった。

アルカディアは、王妃ルイーズの死後、47年も生きた。

オステンドに早くて寒い秋がやって来ていた。霧が立ち込め、湿った風が運ばれてきた。 暖められた家で、ルイーズはショールと毛布で身体を包んでいたが、発熱し大量の汗をかいて震えていた。

彼岸風の去った頃から、患者の容態は悪化していた。 長い間咳が続き、下痢も止まらなかった。また左足が二倍に膨れ上がり、いよいよ病状が深刻化してきていた。

そして肺結核の複合症状として、静脈炎も発生していた。 彼女の側には四人の医者が付き、更に多くのキニーネが服用されていた。 国王から王妃の病状を観察し、容態を報告するように 申し付かっていたヴァン・プラートは、患者の容態についてこう分析している。 「患者は、複数の外国人医師達の、矛盾した処方の 犠牲になっている。」 この頃は、ベルギー独立記念の時期に当たっていたが、王妃の容態の速報の発表が、優先される事になった。

 

 

ベルギーの人々も、ベルギーの独立の事よりも、悲観的な事態が予想される王妃の容態の方を、固唾を呑んで見守っていたのである。 病床でもう死期が近い事を悟ったルイーズは、三人の幼い子供達の事を考えていた。 愛情深い母親であった彼女にとっては、彼らを残して死んでいかなければならない事は、断腸の思いであった。

10月の初め、ついに医師は、王妃ルイーズが絶望的な状態だという宣告をした。妻の病状が危機的な段階にあると判断したレオポルドにより、ドゥニーズ・ルストを通して、急いでオステンドからクレアモントのオルレアンの家族達に連絡をさせた。

この報せを受けたマリア・アメリも、すぐにコンピエーニュの、ルイーズの妹のザクセン=コーブルク公爵夫人クレマンティーヌ、そして弟のオマール公とジョアンヴィル公に連絡した。そしてヌムール公関係の女性達にも連絡が届いた。 また、オルレアン公妃 ヘレーネにも。彼らはオステンドに駆けつけ、愁嘆場が繰り広げられた。

レオポルドは、緊張し、いらいらとした様子だった。 子供達も、母親の様子を見守っていた。 10月10日、ルイーズの呼吸が不規則になってきた。

ついに、彼女に終油の秘蹟が授けられた。 彼女の最後の苦しみが始まった時、人々は子供達を部屋から連れて行った。

10月11日の夜明けまで、ルイーズの戦いは続いた。その後、彼女は死去した。 まだ38歳だった。鏡にベールがかけられ、その後彼女の死が発表された。

 

 

ルイーズは長年の間、夫レオポルドの陰気で気難しい所がある性格や、依然として彼の心の中で大きな位置を占め続けている、前妻シャーロットの影に悩みながらも、自分が理想としていた、夫レオポルドと愛情で深く結ばれた関係を築きたいと願い続けてきた。 しかし、しだいにそれは彼とでは不可能な事に気が付き始めてからも、なおも彼女はその願いをあきらめる事ができなかったのである。そして、ついに疲れ果てたのであった。 王妃の死の弔いのために国内では鐘が鳴らされ、また黒い旗が上げられた。 ベルギーの人々は、王妃ルイーズの死に同情し、また哀惜した。

雨のそぼ降る中、王妃の遺体は首都ブリュッセルに運ばれた。 八年前の1842年に記されていた、故人の王妃の遺言により、 10月17日に、ラーケン王宮近くの村の小さな教会で、王妃ルイーズの葬儀は行なわれた。 彼女は遺言の中で、華麗な葬儀は望まないと遺言していた。太鼓の音が鳴り響く中、王妃の葬儀には、大勢の群集が集まった。年老いた王妃マリア・アメリは、短い間の夫・娘と立て続けの葬儀に、悲嘆に暮れていた。ルスト夫人に支えられたシャルロットは、 すすり泣いていた。

また次男のフィリップも、泣くのを押さえる事ができなかった。 長男のレオポルドは、必死で泣くのをこらえていた。

そして国王レオポルドは、取り乱した表情であり、死者のためのミサが済んだ後に、下がっていなければならなかった。

 

 

彼が倒れる前に、王妃ルイーズの遺体は地下礼拝堂に埋葬された。

「愛する妻、優しい母、偉大なる模範、弱い者への支援」

慕われていた王妃ルイーズは、このように人々の間で神聖化された、崇拝の対象となっていった。 温かい・献身的・敬虔、これらの彼女の要素、そして若くして亡くなった王妃への哀悼の気持ちが、このような形になっていったのだった。

ベルギー初代王妃ルイーズの遺体は、ベルギーのノートルダム大聖堂に埋葬された。 ラーケン王宮では、王妃ルイーズの様々な多くの遺品の整理、目録作りが行われた。 宝石、王妃の個人図書館の本、彼女の描いた描画、彼女の寝室に飾られていた 絵画や彫刻、衣装だんすの中の様々な服。 白あるいは黒のレース、ローブ、ボンネット、 スカーフ、キャミソール、アンダースカート、乗馬服、マント、オーバーコート、帽子、そして最後はショールと毛皮。

次は王妃の個人図書館の中の、フランス語、英語あるいはドイツ語の、153冊の本である。 神学、聖書、教育、言語学(辞書、フラマン語の文法、フラマン語を学ぶための教則本) 、科学、内科と外科の医療の本、 法律学、政治、政治経済学、歴史地理学、ブリュッセルとベルギーに関する本、美術、馬術本、純文学。

このように、多岐に渡る多種多様の分野の本から、王妃が様々な事に、幅広く関心を持っていた事がわかる。

 

 

また、王妃ルイーズは文学に関しても、いろいろな国の古典や同時代の著作を、幅広く読んでいた。 ラ・フォンテーヌ、モンテスキュー、フェヌロン、ダンテ、シェイクスピア、ラシーヌ、シラー、ゲーテその他。

しかしまた、ユーゴー、ヴィニー、バルザック、デュマ、マンゾーニや スタール夫人らの共和制主義者の著作、そしてその中でも「2月革命」の後、臨時政府の首相にまでなっている、ラマルティーヌの著作まで読んでいた。 レオポルドは、この年の12月15日、妻のルイーズについてこう書いた。

「君は善良で愛情深かった。そして常に気高い気持ちを持っていた、疑いなく素晴らしい、愛情深い天使のような母親だった。本当に、彼女はその価値に値する。」

そして更に、彼は亡き妻王妃ルイーズの事を思い出し、絶え間なく、言葉に出したり、また文章で、彼女の性質について、このように表現した。「天使」・「親愛なる天使のルイーズ」、善良さと愛情の天使。王妃は、亡くなって本当の天使になった。

これはずっと長い間妻ルイーズの事を顧みなかった彼の、都合のいい彼女の思い出の美化だった。亡き妻ルイーズへのこれまでの仕打ちに対する罪滅ぼしなのか、早速レオポルドは、天使をテーマにした、妻の王妃ルイーズの霊廟を、彼女が死去したオステンドの街に建造させる事を思いついた。場所は、ゴシック建築の聖ペトルス&パウルス教会である。 そして製作者には大理石の建築物の建築家として権威があった、シャルル・オーギュスト・フランクリンが選ばれた。1859年に、彼の手により、右手には復活したベルギー王妃ルイーズ・ドルレアンへ捧げる花輪を持ち、左手で王妃の手を取っている天使のテーマの、大理石の霊廟が建造された。

聖ペトルス&パウルス教会のベルギー王妃ルイーズの霊廟写真
聖ペトルス&パウルス教会のベルギー王妃ルイーズの霊廟