10月30日、マクシミリアンは各地の旅行から、 首都のメキシコシティに戻った。

彼は各地での国民の反応に、満足していた。

しかし、相変わらずファレス率いる各地での

ゲリラの抵抗は激しく、フランス軍の犠牲は

増加し続けていた。ナポレオン三世も、

派兵した軍隊の兵士が激しいペースで数を減らすため、再び遠征軍の派兵の増強を

命令した。

しかし、これに対して将校達の中からでさえ、 あの広大なメキシコの戦地に、ただ派兵を増やせば済む問題なのか?と、強い反対を示す者達が現われ始めた。

 

シャルロットは、フランスからの派兵の人数が減っていると、手紙の中で皇后ウージェニーに不平を言っている。

ここからは、シャルロットの彼女に対する

強い信頼と、シャルロットの善良さが窺える。

しかし、フランス側の雰囲気は、明らかに変化しつつあった。 フランスは早速フランス大使を派遣し、マクシミリアンに、フランスへの二億フランの支払いが滞っていると伝えさせた。

 今や、皇帝マクシミリアンに莫大な負債が

のしかかっていた。これまで、メキシコ各地の首都と外港を結ぶ鉄道敷設や道路建設などのために、

多額の出費が続き、支払いが追いつかなくなっていたのである。メキシコ北部のゲリラ軍との戦況も、一向に改善していなかった。

マクシミリアンは、財政困難を理由に、

しばらくはフランスへの支払いができないと、 請求されたフランスへの支払いを拒否した。

ナポレオン三世は、マクシミリアンが約束した、フランスへの数々の支払いを、

このように財政困難を理由に支払おうとしな事に、失望した。

 

 

 

 

 

 

メキシコ皇帝夫妻からの要請を受け、 7000人と1200人のオーストリアとベルギー義勇軍が、新たに派兵されてきた。 しかし、新たにメキシコに派兵されてきた兵士達と、すでにいたフランス軍の兵士達との間で、いさかいが発生した。

この頃、ベルギー義勇軍の指揮官としてやって来たのが、大佐のスミッセン男爵アルフレッド・ファン・デル・スミッセンだった。 彼は有能で勇敢な軍人だった。 しかし、彼は横柄な所があり、これに関しては 、フランス人兵士とメキシコ人兵士の間で、 意見が一致していた。

間もなくスミッセンは、 皇后シャルロットの護衛役を務めるようになり、彼女から特別に目をかけられるようになった。

1864年の4月30日、シャルロットが皇后ウージェニーに宛てた手紙には、悲観的な調子が滲み、この中でシャルロットは、軍隊の無駄な犠牲が出続けるばかりで、ファレスを一向に捕まえる事もできず、いまだにフランス軍は勝利をおさめられないでいると書いている。

この頃、ウージェニーのメキシコへの情熱は、 すでに夫のそれと共に減退していった。 そしてイダルゴの影響力も、低下していった。

一向に好転しないメキシコの戦況に、

マクシミリアンとシャルロットは、悲観的な気持ちになってきていた。

1865年の4月、皇帝マクシミリアンは、 再び国内の旅行に出かけた。

今度は、メキシコ東部を見物して回った。

元々自然が好きな事もあり、マクシミリアンは、 このメキシコの自然な美しさを見せる風土を、 愛していた。 一方、シャルロットは再びマクシミリアンが不在の間、彼から委任され、 摂政として政務に携わっていた。

この間、シャルロットは王女として、皇后としての意識からか、悲観的な気持ちから気を取り直し、グリュンネ伯爵に自信に満ちた手紙を書いている。

「必要によっては、私が軍隊の指揮をする事も厭いません。こんな事を言っているからといって、どうか、私を笑わないでください! 」

このシャルロットの手紙の調子について、

これは神経的緊張から逆に、誇大妄想的な気持ちの高揚・自信の現われになって現われたのではないか?とする歴史家もいる。

一方、マクシミリアンの方は、

妻のシャルロットと同じく、メキシコの統治を

開始してから、数々の幻滅を味わった結果により、怒りや迷いなどの感情に襲われていた。 この頃マクシミリアンは、新たに国立劇場と 科学アカデミーの設立計画を立てていた。

シャルロットは、精力的に多くの慈善活動に励んだ。 首都には物乞いが溢れ、そういう人々のために、貧民病院と教会を公共に提供した。 そして、彼女の個人資産により、

一つの産院を設立した。更に、財団を通じて「カルロタ学校」などの、少女達のための施設を設立していった。

 

 

 

 

マクシミリアンが再びの国内旅行から戻ってきた後、メキシコ皇帝夫妻が即位してから

初めての記念日と、メキシコ二十五周年の、二つの祝祭が開かれた。

 午後4時から、将校と馬達が集められた。

  メキシコの首都では凱旋行進が行なわれ、そして花で覆われた。群集が押し寄せていた。

皇帝と皇后は、花に包まれながら進んでいった。 夜には舞踏会が開かれ、そして当然花火も打ち上げられた。 この時メキシコシティに派遣されており、月曜日に催されたシャルロットの夜会に出席した、あるアメリカ人は、皇帝夫妻について、こう言及している。

「皇帝は背が高くてすらりとしており、痩せていて容姿も優れていた、彼は一つの事に熱中する性質で、また優柔不断でもあるようだった、 しかしとても魅力的だった。 しかし、より強い多くの個人的魅力を備えていたのは、皇后の方だった。 時々固くなる事があるが、 知的な彼女の表情、 彼女は実際の生活の困難を、知性でカバーしていた。

 ただ残念な事に、高慢な所が目立つ事もあった。 しかし、私のためにいろいろと親切に世話をしてくれた。」

シャルロットは、祖母マリア・アメリへの手紙の中で、こう書いている。「 私は彼に、皇帝としての自分の責任に対しての自覚を、促します、各々の知恵でもって、マックスを助けます、私にはそれができます。私はマックスを助けます、彼は私の助けを必要としています。」

 

 

 

 

1865年の4月9日、ついに、アメリカの北軍が南軍に勝利し、「南北戦争」の勝敗が決した。ついに、長年の内戦に一定の決着を付けたアメリカが、戦争中は関心を向ける余裕がなかったものの、今後は本格的にメキシコ奪回に向けて、行動を起こしてくるであろう事が予想された。

当時、オリザバを旅行中のマクシミリアンに届いた、この報せは凶報であったが、

これは紛れもなく、敵のファレスにとっては、

吉報であった。

実際に、この後程なく、アメリカがファレスへの兵力提供の支援を、開始し始めている。

また、勝利者のアメリカの南軍側は直ちに、

パリに大使を派遣し、フランスのメキシコへの干渉から、メキシコを守るつもりであると、精力的に主張した。これを聞いた皇帝ナポレオン三世は、怒った。

しかし、ファレス軍との戦いが、フランス軍の大量の犠牲を出しながら長期化してきた事や、このようなアメリカ情勢の変化などから、

 すでにこの頃から彼は、フランス軍の撤退を検討し始めるようになる。

一方、ファレス側にとっては、どんどん有利な状況に展開していった。新たに始まったアメリカの支援の他にも、メキシコ国民が彼ら自由派軍に共感を示すようになっていったのである。これは、ファレス軍の増大を招き、彼の軍は各地で、定期的に出没するようになった。フランス軍は、各地で後退を余儀なくされるようになっていく。そして、首都と海岸沿いの連絡網さえ、

危機に晒されるようになっていった。

「彼らは、再び郵便馬車を奪った、

そして彼ら強奪者に、多くの教養ある若者達が、協力している。」

同じ1865年の5月23日の日記に、ケーフェンヒュラー伯爵カールがこうも書いている。

「メキシコシティとモレリア間の郵便馬車の強奪は、毎週行なわれた。」

 

 

 

 

マクシミリアンの二つの旅行の間、首都には悪い報せが届いていた。シャルロットの誕生日に当たる日だった。まだ経験が未熟なベルギーの派遣団の軍隊が、

タカンバロでファレス軍の罠に落ち、大勢の死者を出し、大敗したのである。そして200人以上が捕虜になってしまった。この軍隊の指揮官は、スミッセンだった。バゼーヌが、人質解放交渉の仲介役を申し出た。

この報せを聞いたシャルロットは、こう言って嘆いた。

「夜まで追跡が続けられました。それは大災害です、まるで地震のような。」

皇后シャルロットは、捕虜になったベルギーの同朋の兵士達の釈放のために、10000フランを寄付した。

 

 

 

この頃から、いつまでも終わらないファレス軍との戦いや、フランスへの支払い問題、また自由主義者であった彼と妻シャルロットが打ち出した、教会財産問題を始めとする、数々の反教権的政策などから、

保守派の支持を失なうようになってしまっていた。またこれには、フランス軍と彼ら保守派との諍いも関係していた。メキシコ皇帝に即位してから直面した、これら数々のギャップや困難から、無気力状態になっていったマクシミリアンは、チャプルテペクやクエルナバカで、数人の友人達とワインを酌み交わして騒ぐなど、怠惰な生活に陥っていく。 とはいえ、皇帝マクシミリアンの政府が掲げていた計画の一つとして、メキシコ国内のインディアン達の保護が上げられており、これにはマクシミリアンとシャルロットが熱心に取り組んだ。特に皇后シャルロットは、これまでの事情から、なかなか、ここまで本格的な、インディアン達の保護に向けて政府が乗り出せないでいた事を、不名誉と感じていた。

当時のインディアン達は、農園主の下で薄給で働かされる事を強制されていた。

マクシミリアンは彼らでも土地を持てる権利を認める事や彼らの雇用条件の改善などを目的にした法律を制定した。しかし、保守派や農園主・聖職者達の反対者達の妨害により、皇帝夫妻が計画していた、

インディアン達の待遇の改善・彼等の自由獲得という目的が、完全に実現する形とはならなかった。

 

 

 

 

1865年の11月、メキシコのユカタン半島に関心を持ったマクシミリアンは、ユカタン半島への旅行を、計画していた。しかし、シャルロットはこのように、ファレスとの戦いが続いている最中、相変わらず不安定な情勢が続いている首都を、皇帝と皇后が長期不在にする事の危険から、夫のこの計画に反対した。しかし、そんな彼女に対してマクシミリアンは、メキシコ全体へ皇帝への権威を

浸透させるためと、熱心に主張した。

11月4日、皇帝夫妻とメキシコの国務大臣ラミレス、 そしてロペス大佐が率いるメキシコ騎兵連隊が付き従い、ユカタンに出発した。この場所は、かつてスペインが征服した場所だった。

しかし、途中馬車が泥で進まなくなるなどの苦労がありながら、ユカタンに到着した。

しかし、ここの住民達は、かつてのように、

メキシコ皇帝夫妻に対して熱心に敬意を

表わそうとはせず、実際には冷ややかだった。彼らは、ファレス派の復讐を恐れていた。住民達は、今やファレス側が、ほぼ勝利したと言っていい状況なのを、知っていた。

 

 

 

シャルロット達の許に、悪い知らせが届く。

1865年の12月10日に、ベルギー国王レオポルド一世が、長い病気の末に、死去した。彼はこれまで結石症の治療のために、何度も手術を受けていた。

シャルロットは、愛する父の死を深く嘆いた。そして、悲しみと共にシャルロットは夫のマクシミリアンと共に、暗澹たる気持ちになった。当時のメキシコは、絶望的な状況にあり、ファレスとの戦いの大きな後ろ盾であった、国王レオポルドの死は、シャルロット達にとって、大きな痛手だった。

父に替わり、  新たに国王に即位した、シャルロットの兄レオポルド二世は、リアリストであり、現在のメキシコの状態から考え、もはや崩壊している帝政のために、これ以上ベルギー義勇兵を派遣する訳にはいかないと考えており、この頃撤退の時期を、検討し始めていたのである。

そもそも、彼は妹夫妻のメキシコ帝国の行方について、初めから懐疑的だったのである。

このような時に、更にシャルロットにとって、

悲しく辛い報せが相次いだ。父の死から三ヵ月後の、1866年の3月に、これも愛する祖母の前フランス王妃マリア・アメリが、亡命先のイギリスで死去してしまったのである。