シャルロットの状態は、悪化するばかりだった。ホテルに戻ってからも、絶えず毒殺を

恐れ、一切ホテルの食事は、受け付けようとしなかった。代わりに召使達に外から鶏を捕まえさせ、彼らに調理させ、飲み水も、 外から汲んでこさせるようになった。

優雅なローマのホテルにとっては、

まさに悪夢のような状況だった。

 

 

 

シャルロットは、ベッドの側で突然裸になろうとしたり、絶えず部屋の中を走り回ったりするようになった。 彼女の発狂が決定的になったと判断され、シャルロットのローマ

着から約二週間後の、10月5日に、メキシコの高官達は、

皇帝マクシミリアンに、皇后シャルロットの精神病を、電信で知らせた。その後、すでに9月の下旬に、 妹の様子をヴァチカンから知らされていた 兄のレオポルド二世は、

弟のフランドル伯フィリップを

ローマに派遣し、妹を迎えに行かせた。 そして精神科の有名な専門家に、診察も受けさせた。

また、これも義妹シャルロットの

発狂を知らされた、皇帝フランツ・ヨーゼフは驚き、 彼も精神科医の

リーデルを派遣した。

この時のシャルロットは、決定的な、恐ろしい変貌を遂げていた。

痩せこけ、頬は不自然に紅潮し、

そして目が爛々と光ったかと思うと、視線を虚ろに、宙にさ迷わせたりした。そして、櫛にも毒が塗られているからと、髪も梳かそうとはしなくなり、彼女の髪は、くしゃくしゃにもつれたままだった。

かつて、高い知性を謳われた

ベルギー王女の、痛ましい変貌

だった。

 

10月7日に、ローマに到着した

フィリップは、妹を連れ帰り、

ミラマーレに連れて行った。

兄が迎えに来た時、明らかにシャルロットは、嬉しそうだった。彼と再び会えた事と、

家族について聞く事を。

その後、二日後に特別列車に乗り、

アンコーナを通過し、トリエステ

行きの船に乗船した。

ベルギーの外交官と、オーストリアの代理公使も、当時のシャルロットの所に来ていた。ヴァチカンの法王

ピウス九世からは、シャルロットへの、多くの祝福の言葉が贈られた。

 

 

しかし、ミラマーレ宮殿、

次いで二年後に、ベルギーの

テルヴューレン宮殿に移されても、

シャルロットの状態は、良くならず、やむなくレオポルド二世は、11年後の1879年に、

妹のシャルロットを、四方を堀で

囲まれた、水城のバウハウト城に

移した。ほぼ、幽閉に近い状態で

あった。

 

 

バウハウト城写真
バウハウト城

一方、当時この妻の精神疾患を知らされた夫マクシミリアンは、強い悲しみと絶望を感じた。不幸な妻への憐れみ、そして、自分の置かれた状況が、ますます絶望的になった事を

痛感していた。妻の発狂といい、ナポレオン三世の、フランス軍撤退は引き続き続行される事・そして一切今後の援助はできないという通達といい、届いてくるのは悪い報せばかりだった。

ナポレオン三世が、妻のシャルロットのパリ訪問を受けて、

もうこれ以上、メキシコに一兵たりとも、 一ターラーたりとも送らないという宣告を してくるまでは、まだ彼が助けてくれる事を、マクシミリアンは強く信じて いたのである。

しかし、現実にはこうして、かつてのミラマーレ条約で、ナポレオン三世がマクシミリアンに請合った、数々の保証と大げさな約束は、風と共に過ぎ去っていた。

結局は、彼の頭にあったのは、経済的利益だった。

フランスにとっての大きな。

そのために、彼らはマクシミリアンに様々なサービスを提供しなければならなかった。

その計画は、修正されないままだった。 そしてこの計画は、失敗した。

マクシミリアンは、その事に気付く事ができないままだった。結局、ナポレオン三世がメキシコ 皇帝に保証してくれたのは、たった二年半の、メキシコ帝国統治だった。

マクシミリアンは、フランス皇帝に手玉に 取られていた、そして操り人形以外の、何物でもなかった。

フランスの援助による、マクシミリアンの メキシコ帝国統治というこの計画の実現は、 初めから困難なものだった。

マクシミリアンは、 ミラマーレ条約について、確かに双方の利害にも基づいてはいたものの、個人同士の信頼と友情にも、強く基づいているものだと 信じていた。

メキシコ皇帝夫妻は、メキシコ帝国を巡る、利害的繋がりの他にも個人間の信頼と友情も、強く感じ、

またそれを信じていたようだが、

ていたが、一方フランス皇帝夫妻の方は、 自分達の利益のために、彼らを利用した側面の方が、強かったようである。

この間、マクシミリアンが得ていた兵力の援助と言えば、オーストリアから、かろうじて5000人の義勇兵が、送られてきただけだったのである。

 

 

 

 

 

 

 

この頃マラリアにかかっていた事もあり、すっかり悲観的になったマクシミリアンは、いよいよ今度こそ本格的に、退位を考え始めるようになる。

彼は病気の療養のため、10月に

オリサバヘと旅行をした。

この頃、保守派の神父にしては、

マクシミリアンと親しかった、

イエズス会神父の、アウグスティヌス・フィッシャーが、彼との約束で

ローマ法王ピウス九世に、かつてシャルロットも試みたように、メキシコ帝国とのコンコルダートの願いをしに行っていた。

そして、援助を要請するつもりだった。

しかし、彼はマクシミリアンのために、コンコルダートを持ち帰る事ができないまま、ローマからメキシコに帰国した。

しかし、彼はマクシミリアンの信頼と彼との友情のため、新しい提案を持ちかけてきた。

  もし、マクシミリアンがこれまでの自由主義・反強権的政策を、放棄すれば、国内の聖職者達の支援・および援助を、約束するというものであった。

彼は、マクシミリアンが優柔不断で気が変わりやすい所があるのを、知っていた。

フィッシャーのこの提案は、

彼の友人としての気持ちからでも

あるが、保守派の要請を伝える目的もあった。保守派は、フィッシャーを通して、マクシミリアンの退位に対しての翻意を、促させようとしたのである。マクシミリアンは、迷ったがフィッシャーの提示した条件を、呑む事にした。これには保守派でさえ、驚きを隠せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、やはりまだ退位の断念には至らない所もあり、なおマクシミリアンは逡巡していた。その内に、やはり退位する事の方を、決心した。マクシミリアンがオリサバを進む内に、1000人の、手に枝を持ったインディアン達が、皇帝の馬車を取り囲んだ。

そしてその間に、花火が打ち上げられた。そして鐘の音が鳴り響き、

数えきれない程の人々が集まってきたそして「皇帝万歳!!」という声が響いた。マクシミリアンは、

これに感動し、また彼の心に深く触れたが、それでも、彼の退位の決意は、まだ揺るがなかった。

しかし、まだ国内外の、正式な退位の発表と、帰還の準備も、整っていなかった。

この頃、マクシミリアンがトリエステにいた時の、 副官で友人であり、現在はオーストリアの、 ハバナ領事になっている、 シュテファン・ヘルツフェルトが赴任先のハバナから、彼の事を心配し、一刻も早く、メキシコから出国するようにと促す手紙を書いている。

「出発が遅れる程、あなたは恐ろしい危険に晒される事になる。保守派の神父の

フィッシャーが、持ちかけている提案は、

ただの口実です。

保守派は、そうやって皇帝をメキシコに

引き止めたいだけです。一刻も早く、

その国から出国する事です、あと数週間もしたら、メキシコは血生臭い内戦の舞台になるでしょう。」

ヘルツフェルトは、予言的な明快さで、今後のメキシコの状況を

見通していた。そして実際に、

マクシミリアンの最終的な決定は、

延期されていった。

メキシコに秩序と平和を取り戻す

までは、去る事ができないと考えていたマクシミリアンは、退位をしない事に決定した。しかし、この間にも、ファレス軍は攻勢を強め、10月31日には、ポルフィリオ・ディアス将軍が、オアハカを占領した。

1866年の11月25日、 正式に皇帝マクシミリアンの、退位撤回がされ、議会では新たに「皇帝軍」創設の計画が、出される事になった。

早速、そのために必要な合計総額が

試算された。その間に、ミゲル・ミラモン将軍とマルケス将軍が、強力な皇帝の軍隊を

創設すると、約束した。

  年間金額1500万ペソの見通しとなり、

30000人の人数で、編成される事が、

発表された。しかし、これは雲をつかむような話だった。 バゼーヌ元帥は、

この計画の有効性に、現実的な考えから

疑問を抱いた。 マクシミリアンは、この「皇帝軍」創設のための資金に関連して、オーストリアの「新聞 新しい波」に、こう書いている。 「現在、ファレスの多数の軍勢の前に、劣勢に追いつめられている。

更にそれに加えて、聖職者が約束の

2千万ピアストルを、提供してくれない。」

 また、将軍ミラモン、マルケスとトマス・メヒアも、政府が本当に30000人の軍隊を用意してくれたのか、不信感を抱いていた。

そして、実際にメキシコ帝国政府は、

30000人までの軍隊は、用意する事ができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

マクシミリアンは、12月12日に、護衛されて

プエブラまで戻り、翌年の1867年の1月3日に、首都のメキシコシティへと帰還した。

彼が首都を留守にしていた間に、

すっかりチャプルテペク宮殿は荒れ果て、

住めるような場所ではなくなっていた。

このため、マクシミリアンはラ・テーヤに

ある家に、向かった。

また、マクシミリアンが気に入っていた、

ラ・ボルタの隠れ家も、略奪にあい、

荒れ果てていた。

このラ・テーヤで、皇帝マクシミリアンと、

バゼーヌの最後の会議が行なわれた。

それも長い時間に渡り。

マクシミリアンは、このように危機的な現状だったが、この頃、元々マクシミリアンの

メキシコ行きに反対していた、

母親のゾフィー大公妃に、自分がメキシコに残っているために、心配しているかもしれないが、自分は大丈夫だから、心配しないようにという内容の、手紙を書いている。

おそらく、大公妃は、メキシコの情勢に

ついて、彼から詳しく知らされていなかった。 また、マクシミリアン自身も、

各地の戦地で、 少しでも明るい知らせの方に、 務めて意識を向けようとしていた。

例えば、ファレスの本部があった、

サカテカスでの、ミラモンの勝利など。

確かに、この時最初は彼はその大胆な奇襲により、 ファレスをあと一歩の所まで、

追いつめた。 しかし、最後の瞬間に、

彼を取り逃がしてしまった。

そして、その返礼として、待ち構えていた

マリアーノ・エスコベド将軍指揮下の、

ファレス軍が、ミラモン軍の不十分な側面を攻撃し、彼らの敗北が決定的になった。

そしてこの知らせも、後でマクシミリアンに

届けられた。 結局、この戦いでの死者は、3000人に昇り、あるいは捕虜にされた。

そしてこれが、25000ペソの軍資金の

損失に値した。

このように、ますますマクシミリアン側の

戦況が厳しくなる中、ついに1867年

2月5日に、バセーヌ元帥の軍隊が、

フランスに向かって、メキシコの首都を

出発した。 そして3月27日には、

ベラクルス港からフランス遠征軍団が、

フランス行きの船に乗船した。

こうしてマクシミリアン最大の軍事力が、

出て行ってしまう事になった。

マクシミリアン達は、メキシコシティを出て、

ケレタロに向かう事にした。

その内、オーストリア義勇兵の軍隊の

何人かは、首都メキシコシティに駐屯

させ、首都の防衛を任せる事にした。

この頃の、マクシミリアンの支配地域は、

すでに首都のメキシコシティと他のプエブラ、オリサバ、ベラクルス、ケレタロの都市のみとなっていた。

なお、これまで30000人の皇帝軍を用意できなかったが、何とかその後政府は、200万ペソの資金を用意し、十万人に軍隊を増強した。

 

1867年の2月13日の朝6時、 皇帝の宮殿で、オーストリア歩兵連隊と軽騎兵が、

一列に整列していた。

マクシミリアンは、彼らに向かって、

自分達一行は、これから首都を離れ、

ケレタロに向かう。そのため、首都の防衛を任せると伝えた。 オーストリア義勇兵の

指揮官達の、大佐アルフォンス・フォン・コドリッヒュ、ケーフェンヒュラー伯爵、ハンマーシュタイン男爵ヴィルヘルム・フォン・ハンマーシュタインは、この皇帝の命令を、

了解した。市門から、同じく首都護衛を任された、皇后騎兵連隊大佐の、

ミゲル・ロペスが、歩兵連隊も連れて、

入ってきた。合計1600人だった。

この時、すでに、敵の軍隊は、首都まで

わずか数マイルの所まで、迫ってきていた。

ひとまず、マクシミリアン達は、ケレタロの近くのサン・ファン・デル・リオの村に宿泊した。 皇帝達の会議で、参謀幕僚候補になっていたマルケスが、軍隊を三つに分ける事にした。しかし、9000人強の兵達しかいなかった。何とかミラモンが サン・ファル・デル・リオでの虐殺から救った、軍隊。

そしてメヒアのインディアン達の軍隊に、

メンデスの率いる、主にこの時はまだ

フランスに帰国していなかったフランスの

精鋭部隊で構成された軍隊の、三部隊に分けられた。このマクシミリアンの部下の、保守派の将軍メヒアとメンデスは、先住民出身だった。

 2月19日、マクシミリアンは、ケレタロに到着した。中心高地のあるケレタロは、常に保守派と教会に関心が高い住民達の拠点だった。

皇帝軍は、高地を占拠してここに布陣した。

しかし、皇帝軍は、あまりにも数が少なかった。今やまだファレス軍の手に落ちていない、マクシミリアンの支配地域は、首都のメキシコティの他に、このケレタロ、そしてプエブラ、オリサバ、ベラクルスの数箇所のみ

となっていた。

しかし、ファレス軍はこのケレタロにも、

着々と迫っており、北からはエスコベト将軍が、西からはラモン・コロンナ将軍が、進軍してきていた。

折りしもこの日は、ついにファレス軍が

政府軍に 対する攻撃を、開始した日だった。

しかし、それでもマクシミリアンはまだこの時、 ファレスとの和睦の望みを、あきらめていなかった。 しかし、この望みはあてにならないものだった。 ファレスは、彼との対話など一切、望んでいなかった。 彼は、ただ憎むべき敵の完全な敗北だけを、 必要としていた。このため、不可避の事態として、 マクシミリアン達のいた、ケレタロ宮殿は、 ファレス軍に包囲された。

更に、この時軍資金も不足してきていた。

兵士達の賃金と食料のための。

そして、この時政府は、もうこれ以上の資金を提供できないと、マクシミリアンに伝えてきた。しかたなく、都市の住民達から課税と兵隊への、強制徴収をする事になった。

3月14日、ついにエスコベドの、

ケレタロへの攻撃が、開始された。

それでも皇帝軍は、戦った。

この時、マクシミリアンは皇帝軍の中央に

立ち、これまでにない、勇敢さを見せた。

皇帝は、ハプスブルク家の名誉を

守りたかった。故郷へ戻るまでに、

最後まで皇帝の王冠を守りたかった。

しかし、新たな苦悩と失望が予想された。

 しかし、都市の住民以外の、

そして修道女達でさえ、 ケレタロの防御に、必死で参加した。

この予想以上の激しいケレタロでの抵抗の前に、 エスコベドは重大な損失を出し、

退却するしかなかった。

この頃、マクシミリアンのメキシコ軍の軍隊の大佐で、マクシミリアンの侍従武官、

そして友人でもあった、ザルム=ザルム公フェリクス・ツー・ザルム=ザルムが、奇跡的な勇気を見せていた。彼は、ザルム=ザルム公国という、古いドイツ貴族の直系出身で、皇帝マクシミリアンの忠実で信頼できる部下であり、数々の勇敢な戦い振りを見せていた。

 しかし、メキシコの将軍達は、この外国の貴族に対する、完全な嫉妬から、彼ら独自の作戦計画を、立てた。それは、現在、首都のメキシコシティから、マルケスが1200人の騎兵を、ここに連れてきて、

その彼の騎兵が、敵の防衛線を、突破するという作戦である。 3月22日の夜、マルケスは無事に首都に到着した。そして、目的の騎兵1200を連れて、プエブラまで着いた。しかし、すでにそこはファレス軍に明け渡された後だった。当然、マルケスの軍隊は、困難な状況に陥った。ほとんどの兵士達は、逃走してしまった。しかし、このような

混乱状態になっても、何とかマルケスは

残った騎兵達を連れて、ケレタロに行った。

一方、大佐のコドリッヒュの方は、

自軍をまとめ、首都の方の防衛のため、

メキシコシティの方に戻っていった。