ブイヨン城写真
ブイヨン城
ブリュッセルのゴドフロワ・ド・ブイヨン騎馬像写真
ブリュッセルのゴドフロワ・ド・ブイヨン騎馬像

ブイヨン城は、ベルギー国内で最も

保存状態が良く、最も古い城の一つである。正確な城の築城年数は、不明。

その戦略的重要性からランスを介し、

リエージュにアーへンの間の上部と

下部ロートリンゲンの間の、南北ルートの防御に当てられていた。リュクサンブール州、ブイヨンの町の、

フランス国境に近い、スモワ川沿いにある城である。

森とスモワ川に囲まれた場所に、

建っている。

 

下ロートリンゲン公ゴドフロワ三世が、最初の所持者だった。

そしてこのブイヨン城は、1050年から1067年の間に、拡張された。

やがてブーローニュ伯ウスタシュ二世の息子ブイヨン・ド・ゴトフロワは、

第一次十字軍遠征のための費用捻出のために、この居城を1096年に、

リエージュの司教オベール・フォン・リエージュに、売却した。

1430年以降からは、ブイヨン城は、リエージュ司教オベールの家臣であった、マルク=アーレンベルク家の所有になっていた。しかし1521年に、カール五世の手に渡る。しかし、1548年以降から、 再びマルク=アーレンベルク家が、ブイヨン城の所有権を取り戻した。

そして、その後のブイヨン公爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとシャルロット・ド・ラ・マルクの結婚により、城はラ·トゥール・ドーヴェルニュ家の所有になった。

1672年に、ルイ十四世は この

ブイヨン城を20日間包囲し、征服した。1678年にこの城は、再びラ·トゥール・ドーヴェルニュの家に与えられたが、1693年に、再びフランスの支配下に置かれた。

この城が立地と防御に、共に要塞と

して優れている事に、フランス軍が注目したからである。

その後、ブイヨン城は、フランス軍の

軍隊技師で建築家の、ヴォーバン領主

セバスティアン・ル・プレストルにより、11世紀の要塞が再建され、

近代的に城を再建した。城は1815年には、オランダ王国のものとなった。そして引き続き、この城はオランダ軍にも、要塞として重宝された。

その後は、ブイヨン城はベルギー王国の所有になっている。

 

 

 

 

 

レオポルド一世と王妃ルイーズの、

ベルギー国王夫妻は、都市計画の事に関する話し合いで、1843年の春から初夏の間、ベルギーのアルデンヌ地方に滞在していた事があり、その折ブイヨンにも、やって来ている。聖霊降臨祭、五月祭の時期に当たり、

ルイーズは、リュクサンブール州の、

小さな町ブイヨンの活気を、評価していた。

この場所に滞在している間に、ブイヨン及びブイヨン城について、こう書いている。

「ブイヨンは、不思議で美しい渓谷やスモワ川の流れの近くに、位置しています。高く生い茂った樹木の幕が、町を取り囲み、古の支配者ゴドフロワ・ド・ブイヨンの城を、飾っています。

初めてここを訪れた時、本当にとても美しく、とても印象的でした。」

こんな風にルイーズは、ここが本当に魅力的な場所である事を、証明している。

実際にも彼女が夫のレオポルドと共に、夜のブイヨン城への、お忍びでの探索を計画していたため。そして、

彼らは中世の城、第一次十字軍の英雄、神秘的な夜、というロマンチックな雰囲気に浸っていたのだろう。

ただし、実際にこの二人の夜のお遊びが、

実行までされたかは、不明である。

そしてレオポルドはこの旅行で、

更に現実的な計画を考えていた。

1830年代の当時のベルギーは、

大きな愛国的情熱を、必要としていた。

複雑な歴史と異なる特色のある地方、

ワロン語とフラマン語など、

言語や違う文化が共存しており、

まだ独立してから新しい国ベルギーにとっては、国民達の意識を、ベルギー国民として一つに団結させるアイディンティティーとなりうる、象徴的な

存在が、ぜひとも必要だったのである。

それを、レオポルドは第一次十字軍の指揮官であり、英雄である、ゴドフロワ・ド・ブイヨンに求める事にしたのである。

このため、国王レオポルドはブリュッセルに戻ると、スモワの彫刻家に、

ロワイヤル広場に設置するための、

ゴドフロワ・ド・ブイヨンの騎馬像

制作を依頼した。

そして、ベルギー国民にとって、

このロワイヤル広場中央の、ゴドフロワ・ド・ブイヨン騎馬像は、ベルギー国民の勇気と信仰心を表わす、格好の象徴となっていった。