ルイーズは、早速クレアモントに身を落ち着けた家族の許を訪れ、彼らのために金銭や衣服などの提供を、行なった。しかし、その内クレアモントの政治的事情により、ルイ・フィリップ一家には、他の場所に移ってもらったらどうか?という意見が出てきたのである。 レオポルドは、オルレアン一族に対して、ベルギーに永住したらどうかと提案した。 これは、ルイ・フィリップが妻の父だからというだけではなく、レオポルドの、フランスでの王政打倒の動きに反対し、あくまで自分は王政を支持するという姿勢を、国内に表わしたいという、政治的思惑もあった。

 

 

その頃、フランスでは王政打倒後、臨時政府が結成され、首相はデュポン・ド・ルール、外相はラマルティーヌ、労働者のアルベールや社会主義者のルイ・ブランも内閣に加わった。4月23日には、普通選挙制を採用し、これまでは25万人だった有権者を、900万人に拡大し、選挙が実施された。 とはいえ、革命派や労働者達の延期要求を抑えて実施されたこの選挙は、多数のブルジョワ派や保守派を当選させる事になった。この頃ルイーズは、8月の国民議会の 補欠選挙で議員に選出される事になる、 いわばブルボン王朝の頃からの、 フランス王家の宿敵とも言える、 ボナパルト一族の一人である、 ルイ・ナポレオン・ボナパルトの動向に、 注目していた。

 

 

彼は、ここ数年、俄かに フランス政界に台頭してきていた人物であった。

そしてルイーズはこの年の六月に、「国立工場」が閉鎖されたのを受けて、労働者達がバリケードを作り、暴動を起こしたのに対し、政府側から命令を受け、カバイニャック将軍が彼らに対して砲弾を撃ち込み、結果として3000人の死者を出す、 凄惨な鎮圧(6月事件)を行なった事に対し、抵抗感を示し、このような鎮圧の方法は、まちがっていると非難した。実際に、この6月のテロは、2月に起きた革命に対する、報復であった。 この6月事件は、死者3000人、逮捕者20000人を出して終わった。

ルイーズの弟のオマール公アンリ・ウジェーヌとジョアンヴィル公フランソワ・フェルディナンは、新たに発足したフランス共和国の 新制度に、激怒した。

 

 

それは、1830年の8月7日に、前フランス国王ルイ・フィリップが子供達に贈与した、彼らの個人財産を新政府が接収すると表明したのである。

オルレアン一族は、フランス追放だけでなく、このような財産の剥奪も受ける事になったのである。当然、ルイ・フィリップはこの法的根拠に疑問を持ち、意義を唱え、この共和国の決定を撤回させようと試みた。ルイーズも、この新政府の決定には、憤慨したが、しばらく事の成り行きを静観してから、最初の行動に出ようと考えていた。

しかし、1848年の5月、国民達の圧力の下で制定された法律により、フランス前国王一家は、前国王が18年前に息子達に贈与した、個人財産の返還所か、フランスへの帰還さえも、困難になってしまったのである。 政府が主張する、当然の理論として、前国王の個人所有地は、全て没収されるべきだと言うのである。ヌイイや、大部分を森に囲まれたノルマンディーの領地を、1830年の8月7日に、ルイ・フィリップが慎重に子供達に贈与した事が、この発端となった。

 

 

今回の政府の方針は、いまやオルレアン一族に 含まれる事になる、異国へ嫁いだ王女 ルイーズの持参金さえも、脅かす事になったのである。 彼女はこの自分と家族に対する、フランス新政府の無情な措置に苦悩し、こう言った。 「耐え難い恥辱」。

ルイーズは、外交を通じて、今回のフランス政府のこの請求に対する、法的正当性と効力に異議申し立てをする事を決意した。

ルイーズは、相変わらずクレアモントの家族の許を訪問し、彼らに励ましや慰めを行ない、また今後の事について話し合った。

また、ルイーズは、王妃としてベルギー国内の貧困問題に、以前から深い関心を寄せていた。彼女は自分は、貧しい者を貧困する義務があると考える、気高いカトリックであった。 ルイーズは、以前からベルギーの貧しい家庭に対して、よく慈善を行なっていた。 彼女は、この問題に対しての現実的な対策を検討し、貧困者の状況を改善したいと考えていた。しかし、それはアクシデント、彼女自身の病気と死で、かなわない事になってしまう。

 

 

この頃の王妃ルイーズは、疲れやすさを感じる事が多くなっていた、 彼女は時々、まるで引き裂かれるような、気管支の激しい咳に襲われていた。 ルイーズは、結核にかかっていたのである。

しかし、彼女はクレアモントを訪れる時にも、オルレアンの家族達にも、病気の事は知らせないままだった。

このように、体調を崩しがちになっていた彼女の耳に、衝撃的なニュースが入ってきた。 ケルンからベルギーに戻って来る夫レオポルドを乗せた列車が、大事故にあったのである。ちょうどプロヴァンスから、ブリュッセルを通過する時の事であった。

ルイーズは、この知らせに蒼白になり、夫の安否を心配した。 実際に、レオポルドの近くの席に座っていたシャザル将軍は、胸に重傷を負い、死亡してしまった。

彼は、国王レオポルドの召使だった。

ルイーズは、この事にも大きな衝撃を受けた。その後、シャルトル大聖堂で、今回の事故で命を落とした、シャザル将軍の葬儀が行なわれた。しかし、レオポルドの方は、 無事であった。

 

 

6月26日には、息子の二人の王子達の聖体拝領には王妃ルイーズも、夫や議会と共に出席した。このカトリックの聖体拝領とは、日本での成人式に相当する儀式である。 長男レオポルドは13歳、次男のフィリップは11歳になっていた。

人々の雰囲気も、喜びに溢れていた。

この夏、ベルギー国王一家は、守護聖人の祝祭と閲兵式への参加を喜んだ。

王宮前のブイヨン・ド・ゴドフロワ像の前で、国王と王妃、そして若い王子達の到来を 知らせる言葉と音楽が、鳴り響いた。しかし、途中で風雨に襲われ、これはルイーズの健康にとっても良くなかったが、 彼女は突風に耐えていた。

この1カ月後には、ベルギー独立記念の、9月23日の祝祭が開かれ、国民のベルギー王室への忠誠が誓われた。「旗が渡されました、昨日、周りには大勢の美しい女性達がいました・・・・・・そして宮殿に向かって、 大勢の人々が上がって行きました、 バルコニーの背後には、そこには大きな演壇が設えられてありました。そしてレオポルドは市民護衛兵の様々な軍団から、 34旗の旗を渡されていました。そして式典の後、レオポルドは演壇の中央に下りていき、聴衆に向かい語りかけ、ベルギー人の愛国心について語り、喝采を浴びて演説は大成功でした・・・・・・ 二時には、息子達が馬に乗り、閲兵式を見物しました。そして市民護衛兵と軍隊は、大通りを進んでいきました。その後レオポルドは、彼らの最初の行列と一緒に、王宮の正面まで戻ってきました。八時には、私達が待ちかねていた晩餐になりました。そして、九時半には、市民護衛兵達などのダンスが始まりました。」

 

 

レオポルドとルイーズの子供達は、成長するに従い、他の人々と同じく、国王レオポルドが愛人の許で、気晴らしと喜びを感じている事に、気付くようになっていった。

その内レオポルドから、亡命中のオルレアン一家を、正式に賓客としてしばらく宿泊してもらいたいという申し出があった。

とはいえ、孤独を感じ、今後の先行きに不安を感じていたオルレアン一家は、ルイ・フィリップが退位する時に王位を譲り、後継者としてパリに残してきた、数年前に事故で急死した長男のオルレアン公フェルナン・フィリップとヘレーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーンの息子で、九歳になる彼の孫のパリ伯 ルイ・フィリップの事も、 心配していた。後に開かれた議会では、 前国王ルイ・フィリップ側の、 パリ伯を擁する摂政に よる、 摂政政治に 移るという案は、 否決され、共和制が決定されていたのだった。

このパリ伯の摂政政治案否決からオルレアン一族追放という、この一連の流れの他にも、オルレアン家には、 不安材料があったのである。 それは、正統派が支持する、当時18歳になるシャルル10世の次男ベリー公シャルル・フェルナンの息子のボルドー公爵アンリ・ダルトワ、後のシャンドール伯の存在であった。 彼はブルボン王朝最後の国王シャルル10世の直系であり、年齢的にもすでに成人しており、パリ伯にとってはフランス王位を 巡る、手強い競争相手であった。 依然として、当時のフランスには、いわゆる、シャルル10世の孫であるこのボルドー公爵アンリこそ、正統のフランス国王であるとする、 「正統派(レジティミスト)」の勢力があったからである。

これに対して、パリ伯らオルレアン家の方を支持する方は、「オルレアン派(オルレアニスト)と呼ばれていた。

シャンドール伯アンリ・ダルトワ写真
シャンドール伯アンリ・ダルトワ
パリ伯フィリップ・ドルレアン写真
パリ伯フィリップ・ドルレアン

当時激しく対立していた、正統派とオルレアン派だが、正統派の一部には、フランス王政の復活のため、一時的にでも、オルレアン派と同盟を結んだ方がいいのではないか?と主張する者達もいた。

オルレアン派の方も、両派の協力の必要性を感じない訳でもなかったが、双方の目指す政治体制には、大きな差異があった。

正統派は、伝統的な王政を目指しており、他方オルレアン派の方は、立憲君主制による、自由主義的な王政を目的にしていた。 しかし、やがて1848年の6月から、両派の同盟のための、話し合いが持たれるようになっていったようである。

しかし、依然として双方の不信感は 強く、ルイーズもこの頃正統派が持ち出してきた同盟の内容については、「まるで子供の散歩です。(子供だましか、稚拙という意味か?)」・また「これは、私達を懐柔しようとする、「正統派」の策略です。」などと、強い警戒感を示していた。

だが姉に対して弟のジョアンヴィル公フランソワは、 彼らも恐れるルイ・ナポレオンの台頭の阻止のためには、彼らとの同盟の方向性を探った方がいいのではないか?と提言した。 しかし、結局今回の両派の最終的な同盟合意には、 至らないままで終わる。

 

 

「6月事件」の混乱を受けて、議会は共和国の憲法制定を急ぎ、11月12日に、「第二共和制」の憲法を制定した。

その結果として、国民の直接選挙で選ばれる任期四年の大統領制と任期三年の一院制議会が相互に独立し合うという、実体は、双方が牽制し合う、身動きの取れない統治制度が新たに作られた。

この結果、権力の強化を求めたルイ・ナポレオンはクーデターを起こし、「第二帝政」への道を作る事になるのである。

クレアモントからベルギーに戻ったルイーズは、今年の12月10日に行なわれる、フランス大統領選挙に注目していた。

候補者は、次の通りだった。ラマルチーヌ、カバイニャック、ラスバイユ、ルドリュ・ロラン、 穏健派か急進派の共和主義者の候補者達だった。 これに対して、保守主義者からはティエール、オディロン、バレット、ブロイ、そしてルイ・ナポレオンが候補者になっていた。ルイーズは、このルイ・ナポレオンについて「ナポレオン時代の楽園に回帰する事を待っている。」と風刺した。

 

 

選挙は、500万票でルイ・ナポレオンが選ばれ、 100万50票のカバイニャックがそれに続いた。 本来ルイーズは、あまり際立った社会的能力を、発揮できる女性ではなかった。それは、彼女が控えめであり、やや頑固な面があったからである。

これらの事は、彼女と閣僚達との交信などからも、窺える。このため、彼女の秘められた知性は、幅広く認められる事がなかった。身近にいた夫のレオポルドだけが、それに気付く事ができた。

この年は、二月のフランスで起きた「2月革命」の余波を、「自由党」は平穏に乗り切った。ベルギー国内には、安堵の空気が流れていた。 また、三度目の大舞踏会も、開かれる事になった。宮廷の人々は、久々のこの舞踏会の再開を喜び、浮き立っていた。前年のそれは、王妃ルイーズの叔母マダム・アデライードの喪により、自粛されたからである。しかし、久しぶりの大舞踏会だったが、ルイーズは夕方、舞踏会の支度をするのが、気が重かった。

夫との関係の悩みや、2月革命での、オルレアン一家の亡命などの心労や、自身の病いなど、それが容姿にも表われ、この頃の彼女は、やつれ、老け込んでいたからである。鏡を見れば、そこには青白い顔に、痩せた体をした自分の姿が映っていた。

また、舞踏会の大広間に視線を移せば、若さと華やかさに輝く、美しくて傲慢なメイヤー夫人アルカディアと夫のレオポルドが、密やかに甘い囁きを交わしている光景が、彼女の目に入った。

 

 

このような事から、ブリュッセルにいると息苦しさを感じるルイーズは、クレアモントの家族達のいる場所に、しばしば逃避した。

しかし、1849年の2月20日に、レオポルドがアルカディアのいるアルデンヌに行ってしまった事に対して、彼女は残念な気持ちを表わしている。 まだ、ルイーズは夫との間に、幸福な夫婦関係を築きたいと思っていたのである。 祖母のマリア・アメリは、久しぶりに孫達と対面し、彼らの成長振りに驚いていた。 レオポルドは、体型はほっそりとして、神経質で夢想家で見栄っ張りな子供だった。 また、父国王レオポルドは、彼に陰険な所があるのを懸念していた。

フィリップは、ずんぐりとしており、温厚で従順だった。シャルロットは、素直な優等生だったが、しかし、女の子としての可愛らしさには、欠ける所があった。 また、最近では気まぐれになり、身を飾る事にばかり興味を示すような感じになっているのが、少し心配された。レオポルドの、アルカディアに対する、人目を憚らない寵愛振りに、ルイーズは深く王妃としての誇りと心を傷つけられていた。またベルギーの新聞も、国王レオポルド一世が、アルデンヌのアルカディアの許へ頻繁に訪れている事を、取り上げていた。